日米友好の桜物語伊丹事業実行委員会

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 日米友好の桜について

 アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は、世界の名所の一つになっています。この桜は明治の終わりごろに、アメリカのタフト大統領夫人の希望を受け、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。

 1909年(明治42年)8月18日 衆議院議員で東京市長の尾崎行雄はその頃、日露戦争を講和に導いてくれたアメリカの恩義に報いようと考えていました。 来日経験があり桜の美しさの知っている当時のタフト米国大統領夫人は新たな首都ワシントンのポトマック河畔の都市計画案に日本の桜を採り入れ桜並木にする計画を旅行作家であったエリザ・R・シドモア女史よりかねてより首都の都市計画に桜並木を採り入れることをすすめられていました。
 また尾崎行雄は在米の高峰譲吉博士や水野総領事を通じて、この桜の植樹計画を知ることとなり、ワシントン市に桜の苗木を贈る事を決めました。
 その経費はタカジアスターゼやアドレナリンを発明して財をなし、米国政財界に活躍していた高峰譲吉博士の負担により2000本の桜苗木が横浜の植木商に発注し米国に送られました。
  しかし、残念なことに最初に日本から送られた2000本の桜の苗木はすべて病害虫のため、植物検疫上国内に持ち込むことが出来ずに焼却処分にされました。 この知らせを聞いた関係者は落胆し、尾崎行雄東京市長は前回の失敗を繰り返すことなく高峰博士の支援を受けて再度桜を送ることを決定。寄贈本数も6000本となり 半数は高峯譲吉博士や日本人の希望でニューヨークハドソン河開発300年記念式に送るためのものでした。
 今回の寄贈計画にあたっては植物学の専門家の英知を集めて周到な準備で進められました。まず1910年(明治43年)3月、農商務省農事試験場長の古在由直農学博士に害虫の駆除や苗木づくりの方法について調査依頼をしました。
古在博士の報告をうけ桜の苗木づくりがはじまりました。旧清水市興津にある農商務省農事試験場園芸部の恩田鐵彌部長と桑名伊之吉技師、熊谷八十三技師、堀技師が中心となり苗木づくりにあたりました。
 寄贈する桜苗木の生産は、 接ぎ木で増やすことにしました。山桜の木の枝を切り取って土に挿し木して根を出させ、枝から葉や芽が出たものを台木とします。
 桜の権威、三好学博士の助言により、穂木は東京の荒川堤の桜並木から1910年(明治43年)12月品川の妙華園、河瀬春太郎氏及び船津静作氏の助けをかりて熊谷技師により荒川堤から興津の農事試験場に集められた桜は59種類にものぼりました。
 また台木は、兵庫県の東野村(旧兵庫県川辺郡稲野村之内新田中野村字東野、現在は伊丹市)産の山桜を使用し、興津の農事試験場では、この台木に穂木を接ぎ木して育てることになりました。
 1912年(明治45年)2月14日、横浜港より桜苗木6040本を積んだ日本郵船「阿波丸」がシアトルに向け出航しました。 苗木の半数はワシントンのポトマック河畔植樹用に、そして残りの 半数は高峰譲吉博士や日本人の希望でニューヨークの「ハドソン・フルトン祭」に送るためのものでした。 到着後これらの苗木はワシントンへ向け、冷蔵貨車で運ばれました。1ヶ月後の1912年3月26日に桜苗木はワシントンに無事到着しました。農務省検査局が検査したところ病気や害虫がまったく無くこのような完璧な苗に驚いたそうです。
 歴史的な植樹式は1912年3月27日に、タフト大統領夫人と米国駐在珍田大使夫人がタイダル・ベイスン(貯水池)の北岸、現在のインディペンデンス 通り南側に最初の2本の桜(染井吉野)を植樹し行われました。
 シドモア女史はじめ、ごく少人数でこの植樹式が行われました。いまでもその2本の木は記念碑とともに残っています。式典の最後に、タフト大統領夫人は「アメリカンビューティ」のバラの花束を珍田大使夫人にプレゼントしました。
毎年首都ワシントンで開催される「さくら祭り」はこの植樹された場所で開会式が行われます。日米友好の桜はその後、多くの人々の熱意によって守られ、見事に成長しいまでは首都に春の訪れをを告げる花となり多くの人々が集まります。

(*この記述は下記のとおり米国NPS(公園管理局)の桜の歴史に記されています。)         *地図はクリック拡大表示
 
米国NPS(公園管理局)の「桜の歴史」(引用先ページ)のページで以下のとおり東京の足立区荒川堤とともに伊丹市の桜台木が紹介されています。
 
Mr. and Mrs. Yukio Ozaki

Courtesy U.S. National Arboretum

Mr. and Mrs. Yukio Ozaki 尾崎行雄夫妻

The probable diplomatic setback was alleviated by letters from the Secretary of State to the Japanese Ambassador expressing the deep regret of all concerned. All parties involved from Japan met the distressing news with determination and good will.

 Tokyo Mayor Yukio Ozaki and others suggested a second donation be made, and the Tokyo City Council authorized this plan. The number of trees had now increased to 3,020.
The scions for these trees were taken in December 1910 from the famous collection along the bank of the Arakawa River in Adachi Ward, a suburb of Tokyo, and grafted onto specially selected understock produced
in Itami City, Hyogo Prefecture.

(翻訳) その外交的な失敗(1回目の苗木の焼却処分)は、米国務長官から日本大使宛ての手紙で今回の件につい
    て深い遺憾の意が伝えられことにより幾分かその痛手を和らげたものと思われます。 日本はじめすべての関係
    者は痛ましい知らせに善意と決断で対応しました。

     
尾崎行雄東京市長など関係者は2度目の寄贈を議会に諮り東京市議会はこの計画を承認しました。苗木は 
    3020本に増えました。 これらの桜穂木は1910年12月に有名な東 京郊外の足立区の荒川堤から採取され
    たものであり、そして
兵庫県伊丹市で特別に選定された台木に接木されました。
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